若松さん③

生涯学習の研究と海外生活での経験を、このまちに還元する。③

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 若松文さんは、NPO法人コミュネット流山のゼネラルマネージャーを務め、2022年3月まで利根運河交流館の館長、2022年4月から東部公民館の館長として活動しています。流山だけでなく海外で数々の地域活動に努めてきた、3人のお子さんを持つお母さんです。
 結婚後タイのバンコクで3年、流山4年、またバンコク4年、そして流山10年暮らし、今度はニューヨークに転居します。

そして、今度はニューヨークへ

 教育委員の任期中2016年に、ニューヨークへの赴任が決まりました。赴任が決まった時、第一子は大学2年生、第二子は高校2年生、第三子は中学1年生でした。着任は4月からでしたので、第三子は三学期が終わってすぐ一緒に渡米、第一子はアメリカで新学期が始まる9月までは親戚の家から日本の大学へ通うことになりました。
 問題は、高校二年生だった第二子。預け先で悩んでいた時に、本当にありがたいことに、第二子が第二の母と慕っている流山の友人が、ホストファミリーを引き受けてくれました。第二子が、安心して一年間日本で過ごせたのは、友人ファミリーのおかげです。」

 ニューヨークでは、「マンハッタンから一番近い森のまち」ともいえる郊外の住宅街で暮らしていた文さんは、子どもたちが現地の高校、大学に通うようになると、平日は毎日100マイル(約160km)を車で送迎する日々が続きます。
 「子どもたちが大きくなると、保護者同士が知り合いになる機会も減っていくので、私自身の友達づくりが一番難しかったかもしれません(笑)。
 ニューヨークでは、日本の小学校で続けていた本の読み聞かせに参加したり、発達に問題を抱える日本人親子のサポートボランティアとして活動していました。
 第三子が補習校に入学したことから、補習校の保護者会の会長を務めることになりました。ニューヨーク補習校では、幼稚園から高校2年生までの子どもたちが学んでいて、保護者の年齢層にも幅がありましたが、第三子の子育てもほぼ終わった私にとって、子育ての総まとめのような保護者会活動となりました。

 ニューヨークに住む日本人の方々が、子どもたちのために何かやろうと思って立ち上がった時はものすごいパワーで、とてもやりがいのある活動となりました。
 ニューヨークでは日本人がマイノリティの立場も経験もしたことで、人権意識が変わりました。特に、人種差別の問題やジェンダーや性的マイノリティの問題については、帰国してから、日本の現状に違和感を感じることが今でも多いです。
 帰国前の4か月間はコロナで街はロックダウンとなり、ほぼ外出できませんでした。地域の小学校から高校まで、試行錯誤を繰り返しながらも、オンラインでどんどん授業を進めていくアメリカのすごさを目の当たりにしました。
 ロックダウン中に、SNSを通じて、流山の休校中の子どもの教育を前進させる会の活動に参加することになり、同会が実施したアンケート集計のお手伝いをしました。流山から夜にデータを送ってもらうとニューヨークは朝なので、24時間稼働で集計ができました(笑)
 また、少しでも参考になればと思い、ニューヨークの学校での現状を伝えるようにもしていました。」

いま、このまちで

 文さんは2020年再び流山へと戻るやいなや、NPOコミュネット流山のゼネラルマネージャーとして、利根運河交流館の館長として活動し、東部公民館の運営にも関わっています。
 「アメリカに行っていた4年半の間に流山は激変していました。特に、流山おおたかの森エリアの開発が進んでいて、帰国早々迷子になりました(笑)。
 子どもたちと一緒に自然観察や米づくりをしたり、ホタルが飛ぶのを見てきた新川耕地がすっかり変わってしまっていたことには、本当に驚きました。」
 帰国して一年は、よく知っているはずのまちなのに何かが違う、という微妙な戸惑いを感じていた文さんですが、積極的な地域活動は今も変わらず続けています。
 「東部公民館を、子どもからシニアまで誰もが学べる場所にしたいとの思いから、いち早くWi-Fi環境を整備しました。ICTの進歩に取り残されないための一歩として、絶対必要な条件と考えていました。市内の各施設がネットワークでつながることで、新しい学びや楽しみや人とのつながりの可能性が生まれていくのではと期待しています。
 バンコクもニューヨークも運河の街で、利根運河とは縁を感じています。利根運河は自然の宝庫で、土木遺産でもあります。かつて観光に力を入れていた、観光文化遺産の側面もあるので、ウィズコロナでも楽しめる参加型の企画し、利根運河の魅力を市内外に発信していきたいと考えています。」

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