若松文さん

生涯学習の研究と海外生活での経験を、このまちに還元する。①

 若松文さんは、2020年4年間のニューヨーク生活から流山に戻るやいなや、NPO法人コミュネット流山のゼネラルマネージャーを務め、2022年3月まで利根運河交流館の館長、4月から東部公民館の館長としても活動しています。過去にも、流山だけでなく海外でも数々の地域活動に努めてきた、3人のお子さんを持つお母さんです。

きっかけは、マタニティブルー

 1995年、当時大学院博士課程で生涯学習を研究していた文さんは、夫の仕事の関係で、タイのバンコクに転居することになりました。海外でも研究を続けていきたいと思っていましたが、実際には難しかったため、葛藤を抱えながらバンコクで生活をしていました。
 ある日、降りる船着き場を決めずにチャオプラヤ川の定期船に乗り、どこまでも続くタイの風景を眺めているうちに、今の自分の置かれている状況を受け入れ、学問で得た知識を実生活で活かしていこうと気持ちを固めます。そして、バンコクで第一子を妊娠、出産します。 
 「日本で里帰り出産する人も多いなか、私は第一子をバンコクで出産しました。当時の私は、日本人駐在員社会に近寄りがたくて、育児サークルの産後サポートもお断りしていました。
 そんな私のところに『やっぱり気になってしまって』と、出産後に、育児サークルの方が病院訪問に来てくれました。初産でマタニティブルーになりかけていた私にとって、サークルの方々の気配りが大きな助けとなりました。その出来事をきっかけに、育児サークルでのボランティア活動を始めるようになったんです。」
 育児サークルで出会った駐在員妻たちの多様なキャリアと運営の各部門で有能な力を発揮していく姿に驚き、文さんは驚きと感動を覚えていきます。そんな仲間たちとの共働の楽しさや喜びもあり、文さんは赤ちゃんを抱えながら積極的に活動を進めていきます。
 「海外で暮らす日本人は、日本の住民票がないので、日本で母子手帳がもらえません。発展途上国のタイには、日本のような手厚い行政サービスはありませんから、日本人コミュニティでの助け合いが必要不可欠です。
 当時、日系企業のタイ進出ブームと重なったこともあって、最初50人程度だったサークルは、1年で500人規模になりました。サークルの運営を進めていくなかで、市民と行政がやるべきことの線引き、役割分担が、肌感として理解できるようになったことは、今の私にとって貴重な財産となっています。
 専門分野の『生涯教育学』を発達障害の教育研究と勘違いされたのをきっかけに、子どもの発達の問題にかかわることになりました。この勘違いが縁となって(笑)、現地に支援体制がほとんどなく限られた日本語環境しかない海外生活のなかで、子どもの発達の問題に悩んでいる、日本人家族をサポートする相談会を立ち上げました。」

バンコクから、流山に

 バンコクから流山に1998年文さんは第2子の妊娠7か月めで帰国が決まり、社宅がある流山に引っ越すことになります。文さんにとって流山は、住んだ経験も無く知り合いが全くいないまちでした。日本で家族一緒に生活することも初めてで戸惑うことも多いなか、第二子を出産。二人目の育児が始まりました。
 「まったく知り合いがいなかった流山でしたが、第二子出産後、児童館の活動に参加したことをきっかけに友人の広がりができました。日本では母子保健サービスがきめ細かく充実していますが、子ども好きが多く子連れに優しいバンコクに比べ、子どものいる生活のしにくさを感じることはありました。
 その後、第一子が江戸川台幼稚園に入園したことから、PTAの活動に参加します。親の出番が多い幼稚園だったこともあり、幼稚園での活動をしていくなかで、大学で学んだ教育学や発達心理学と、実際に子どもたちが学びあう姿を重ね合わせて、子ども一人一人の個性にあった学びのありかたを探究する面白さに気づきました。」
 バンコクでサークルを運営してきた経験とスキルは、流山での児童館や幼稚園での活動にも役立てることができたようです。文さんは次第に地域での活動を通して、このまちにある教育資源をネットワークでつなげ、地域での子どもたちの学びの場を作っていきたいと思い始めます。
 第一子が小学校にあがるタイミングで大学院には戻りたいと思っていた文さんでしたが、2002年第3子を妊娠し、出産。退院してわずか1週間後に二度目のタイ転勤が決まります。4月から小学2年生と年中さんになる上の子二人と生後3か月の乳児を抱えて、再びタイに戻ることになります。                   (②につづく)

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